YWCトレードロジック事業部の若尾 裕二です。
今日は、あまり普段は話すことがない
僕の過去についてお話します。
なぜ僕が今のようなビジネスをしているのか。
僕の根っこの部分にある
お金に対しての意識はどういうものなのか。
そういうことって、なかなか話す機会はないですし
敢えてアピールすることでもない話です。
でも今日は、僕の両親、そして兄に敬意を込めて、
初めて腹を割って、僕という人間の深い部分のことを
お伝えすることにしました。
興味があれば、どうぞこの先をお読みください。
僕は高校3年生までは、
生まれ故郷の山梨県で育ちました。
小学校5年生までは、甲府市の
2部屋しかない市営団地で暮らしていました。
小学校6年生からは、
現在の笛吹市に父が家を建てて
そこで暮らすことになりました。
父は中卒で石材加工の職人で
母は中卒で内職で洋裁の仕事をしていました。
そして元ヤンキーで高卒の
ある意味で自慢(?)の兄がいます。
決して裕福とは言えず、
かといって貧乏というわけでもなく
ごくごく普通の家庭で育ちました。
そして僕は、東京の私立大学に進学するために
18歳で実家を離れることになりました。
大学に進学してからは
夏休みなどの長期休暇もアルバイトの予定があり
実家にはほとんど帰らない状態になりました。
そして僕が大学4年生(22歳)時の10月に
父は仕事中に事故に遭い他界してしまいました。
事故に遭い意識不明となりまして
ほぼ即死のような状態でした。
クレーン車の片足がしっかりと止まっていなくて
クレーン車が横転してしまって挟まれてしまい
それが原因による圧死だったのです。
地元山梨の新聞にも掲載されるほどの
大きな事故を起こしてしまったわけですね。
事故の原因として不注意だの確認不足だのと
いろいろと難癖をつけられたようで
保険適用にはならなかったことを
当時は母から聞かされました。
その時に僕は就職先が決まっていたのですが
母の状態を心配して、就職先の内定を辞退して
山梨に帰って就職しようと思いました。
でも母は気丈にも僕にこう告げました。
「お父さんは15歳の時から小さい会社で働いていて
裕二が大きな会社に就職することを喜んでいたから
お前は山梨には帰ってこなくていい。」
母のその言葉で、僕は結局
山梨で就職先を見つけることはやめました。
正直なところ、母のことは心配でしたが
山梨には兄もいるわけですし
山梨に帰りたい気持ちと帰りたくない気持ちの
ふたつの気持ちの中で心は揺れ動いていたので、
当時は母の言葉に素直に従うことにしました。
でも、その父の事故死をきっかけとして
母の体調がすぐに悪くなっていきました。
精神状態がとても悪くなってしまったのです。
それはそうですよね。
昨日まで普通に一緒に暮らしてきた父が
突然いなくなったのですから。
家の中にだって父の物はたくさんあるし
父が好きで飼っていた4匹の犬もそのままで
父だけが家にはいなくて帰ってこないのですから、、、
そして、生活していくことへの金銭的な不安も
きっと大きく感じていたのではないでしょうか。
そういうことがあったせいか
かなり精神が病んでしまい
精神病院への入院を余儀なくされました。
父の死後、母は実家を離れて、
近くに住む兄夫婦と同居をすることになったのですが
兄の家には小さい子供もいたので、
入院は仕方のないことだったんです。
でも心の病の場合は、
ずっと同じ病院にいられることはなく、
3か月ごとに転院を強いられたのです。
次から次へと受け入れ先の病院を探すことも大変でしたが
それよりも入院させるための金銭的な面で
僕と兄は当時はとても頭を悩ませていました。
僕は就職した会社の配属先である新潟市から
週末には山梨へ毎週のように帰りました。
新潟駅から大宮駅まで新幹線に乗り、
大宮駅から新宿駅に出て、
新宿駅からは特急に乗り山梨まで行くのです。
往復の交通費だけでも1か月に
10万円に近い金額になっていました。
でも結局、母は元の元気な状態に戻ることはなく
僕が31歳の時に帰らぬ人となりました。
入院先の病床で、食べたものを喉に詰まらせて
窒息してしまったことが直接の原因でした。
その当時は、僕は埼玉勤務となっていましたが
突然のことで母の死に目には会えませんでした。
それは、父が他界してから、
ちょうど10年目のことでした。
僕は父が事故で他界したときには
とても大きな不安を抱えることになりましたが
気丈にも涙を必死でこらえていました。
「泣いちゃダメだ。母はもっとつらい。
だから絶対に俺が泣いたらダメだ!」
唇を血が出るくらいまでグっと噛みしめて
両手の拳を強く握りしめながら
通夜の時も葬式の時も、鬼のような形相で
グッと涙をこらえていました。
でも、母の時は違いました。
子供の頃に過ごした甲府市の
2間しかない狭い市営団地での家族との生活。
小学6年生になる直前に新築して引っ越した
新しい家での家族との生活。
父にいつもしつこくお願いをして
キャッチボールをしてもらった思い出。
甘えん坊で中学一年生の時まで
母と一緒に入っていたお風呂の思い出。
毎年のお盆休みの家族旅行の楽しい思い出。
そして、家族4人で
同じ屋根の下で暮らした日々。
そういうのが次から次へと脳裏をかすめ
僕は人目もはばからずに子供のように
声を上げて泣いてしまいました。
泣きながら、自分の力のなさ、経済力のなさに
ただただ情けなくて悔しくて仕方がなかったんです。
だから僕は今でも悔やんでいます。
当時もっと金銭的な余裕があれば
母にもっとまともな治療を
受けさせてあげられたからです。
兄も僕も金銭的な余裕などなかったけど
2人で何とか母を入院させていたという事実。
その事実は消えることはなく
今でもあの時の負い目が
脳裏にこびりついています。
今でも兄と顔を合わせると
必ず当時の話になってしまいます。
だから僕たち兄弟は、
お金を稼ぐことの必要性を
深く知っているつもりです。
大好きな母を経済力がないために
助けてあげることができなかったこと。
そういう負い目があるから、そして
お金に困った時の苦しさを知っているから
物欲をお金で満たすような考え方には
今もなっていないのかもしれません。
僕の兄は、今では会社員ではなく
ビジネスオーナーになっています。
そして僕も会社員ではなく
トレーダーとして自分の足で立って
今の僕の家族の生活を支えています。
僕たち兄弟は、たまたま
そういう出来事に遭遇をしたから
自分でお金を生み出す力の必要性に
若い時に気が付くことが出来ました。
そして、そういうことがあったからこそ
家族というものに対しては
人一倍強い思いがあるのでしょうね。
弊社が開発をした教材の中には
僕の子供たちに継承させようと思って
僕自身が開発をした渾身のトレードロジックがあります。
僕が経験したような惨めな思いを
我が子には経験してほしくはないからです。
この裏プロフィールを書いているのは
2017年9月2日です。
明日の9月3日は僕の母の誕生日です。
生きていれば81歳になるのですが
母の人生は63歳で幕を閉じました。
いくら母でも、81歳になった母の姿は
まったく想像できません。
母に抱くイメージは、
今でも僕が子供の頃にひっつき歩いていた
優しい母のイメージしかありません。
僕が今こうして存在しているのも
僕の子供たちが存在しているのも
母が僕を産んでくれたからです。
だから、今でも母の誕生日は
お祝いしたい気持ちでいっぱいなんですね。
今日は僕という人間が出来上がった原点を
つい長々と綴ってしまいました。
最後まで根気よくお読み頂き恐縮です。
あなたが大切にして守りたい人は誰ですか?
何があってもその人を守り抜く自信はありますか?
僕は今日書いたように
守りたかった人を最後まで
守ることができませんでした。
だから、今でも夢を見て
ハッと目を覚ます時があります。
あの時にお金さえあれば…。
今でも思い出しただけで
悔しさと情けなさが
胸にこみ上げてきます。
あの時のその気持ちは
一生消えることはないですね。
だから僕はひとりでも多くの人に
お金を稼いでもらえるように
トレード教材を販売しています。
なんせ母の口癖が
「自分のことばかり考えるな!」
でしたからね。
僕の人生で、最も多く
何回も繰り返して言われた言葉です。
後戻りはできない人生だからこそ
今を、そしてこれからを
熱く生き抜きましょう。
FXは難しく、バイナリ暦4年ですが殆ど+-トントンです。何時かFXをトライしてみたいと考えています。 (りふこか)
コメントありがとうございます。リスクリワードのことを考えたらバイナリーでトントンは逆にすごいことだと思います。FXに挑戦する際にはぜひ僕のブログを参考にしてください。今後ともよろしくお願い致します。